名古屋高等裁判所 昭和56年(ネ)291号 判決 1986年12月26日
控訴人
日本赤十字社
右代表者社長
林敬三
右訴訟代理人弁護士
饗庭忠男
同
小堺堅吾
同
鈴木匡
同
大場民男
同
山本一道
同
鈴木順二
同
伊藤好之
同
鈴木和明
被控訴人
前田幸人
右法定代理人親権者父兼被控訴人
前田善一
右同母兼被控訴人
前田良子
右三名訴訟代理人弁護士
石坂俊雄
同
中村亀雄
同
村田正人
同
福井正明
同
伊藤誠基
主文
原判決を次のとおり変更する。
控訴人は被控訴人前田幸人に対し、金三〇〇万円及びこれに対する昭和五〇年二月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を、被控訴人前田善一、同前田良子に対し各金一五〇万円及び内各金一〇〇万円に対する昭和五〇年二月一八日から、内各金五〇万円に対する昭和五六年六月一九日から、いずれも支払済みまで年五分の割合による金員を、各支払え。
被控訴人らのその余の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は第一、二審を通じてこれを五分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人らの負担とする。
この判決は被控訴人ら勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴人
原判決中、控訴人敗訴部分を取消す。
被控訴人らの請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
二 被控訴人ら
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
第二 当事者の主張
当事者双方の事実上法律上の主張は、次に付加するほか原判決の事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。
(控訴人らの主張)<省略>
(被控訴人らの主張)<一〜六省略>
七 浦和医師の注意義務について
1 浦和医師の証言は、第一審と第二審ではその内容が重要な点において大きく変化し、信憑性がない。そして、これらの証言からするならば浦和医師は本症に対する知見と診断能力を全く有していなかつたものであり、同医師が被控訴人幸人を本症に罹患しているか否かなどという視点から診察していないことは明白である。また、控訴人(山田赤十字病院)の小児科医水田・森川両医師は、昭和四七年当時光凝固治療法を知つていたし、その後昭和四八年五月被控訴人幸人が山際眼科で受診した際には、山際医師は、本症であることを直ちに了解して、永田医師の受診をすすめている。
以上の事実から明らかなごとく、浦和医師は、昭和四七年当時の眼科医としては、当時有しておくべきであつた本症に対する知見を全く有していなかつたに等しく、右知見を得るために眼科雑誌の通読、同僚・先輩医師への問い合わせ、出身校である三重大学への問い合わせ等簡易容易な努力さえもしておらないのであり、その責任は重いといわざるを得ない。
浦和医師が眼科医として前記のような本症に対する知見を取得するという注意義務さえ尽くしていれば、他病院への紹介又は浦和医師の説明に基づき患者自ら天理よろづ相談所病院に診察を受けに行くなどして早期に本症を発見でき、失明するに至らなかつた蓋然性は高いのである。
要するに医師は医学の進歩に遅れないでついていく義務があり、「頑固に古い技術で任務を遂行すること」は、許されない。医師が自らの診断能力が劣つていることを認識しないこと自体が過失である。
医師は日頃から専門文献を読んだり、専門雑誌を検索したり、上級機関に照会したり、また学会や専門的研究会に自発的に出席するなどして継続的に自ら研鑽し、自らの見識にもとづいてこれらを評価しつつも、具体的な患者の症状に対応して必要とあれば、その都度他の専門文献調査や近接地域の専門家に問い合わせるなどの努力を怠らず新たな展開に対して機敏に対応すべき義務がある。
本件において、被控訴人善一、同良子は浦和医師に対し被控訴人幸人に未熟児網膜症が発症してくる危険性があるのかどうか、あるいは既に発症してはいないのかについて、みてほしい、と具体的に依頼しているのであるから、浦和医師としては未熟児網膜症の件についての診断治療の依頼であることを十分認識し、自らの知見を自問し、自らの知見や診断能力が不足していることがないかどうか文献の検索を行うか、もしくは上級医療機関の眼科医ないしは他の専門的医師に照会する等の調査を尽くすべき義務があつた(知得義務、自己研鑽義務、調査義務、文献検索義務、上級医療機関への照会義務)。
また、被控訴人幸人は、生下時体重一六三〇グラム、在胎週数三〇週で出生し、出生直後から保育器内に収容されて、爾後二二日間酸素の投与を受けたのであるから、同人が本症に罹患する危険性のあることをもとより予想すべきであつた(結果発生予見義務)。
しかるに浦和医師は、これら諸義務を尽くして結果の発生を回避すべき義務があつたというべきところ、そのいずれについても注意義務違反を犯していることは明らかである。
2 本症のような特殊的疾患で、技術も、経験も相当高度な訓練を要し、器械設備も高価なものであつて、症例としても、天理よろづ相談所病院のような未熟児施設をかかえた大病院でも年間一、二例に対して用い、実施の適期もかなり限定されるというものにあつては各地の基幹的病院において光凝固治療が行われるようになり、転医を一般的に受け付け、医師がそのことを通常の注意をしていれば知りうる状況になり、かつ、転医についてそれを不能ならしめる具体的事情がなければ、転医説明義務が生じているといわなければならない。
文献に現れただけでも昭和四七年一一月当時、名市大病院、名鉄病院、天理よろづ相談所病院、大阪府立病院、関西医科大学、京大病院などの専門的機関が転医を受け付けて光凝固を実施しており、被控訴人幸人の搬送に全く支障なかつたのであるから、転医説明義務が存在しないとは常識的に考えられない。
第三 証拠関係<省略>
理由
一当裁判所も、被控訴人幸人に対する控訴人(山田赤十字病院以下控訴人病院という)小児科における水田隆医師、森川佑医師の医療上の措置については、被控訴人ら主張のような注意義務違反は存せず、また、控訴人病院の医療体制にも、被控訴人ら主張のような不備は存しなかつたと判断するものであり、当事者間に争いのない事実、被控訴人幸人の出生から失明に至るまでの経過と失明の原因、未熟児網膜症―以下本症という―の歴史的背景、発生原因、発生機序等、水田、森川両医師の医療過誤及び控訴人病院の医療体制上の不備の各不存在についての当裁判所の認定判断は、以下に訂正、付加するほか原判決の理由説示中、これらの点に関する部分(原判決六七枚目表二行目から八三枚目裏二行目まで、八六枚目表八行目から九三枚目表五行目まで、同裏八行目から同九五枚目表四行目まで。但し、七二枚目表三行目の「及び浦和医師」と、九二枚目表九行目から一〇行目にかけての「光凝固法及び」を各削る。)と同一であるから、ここにこれを引用する。
<訂正・付加(一)、(二)省略>
(三) 同七六枚目裏末行から同七七枚目裏六行目までを次のとおり改める。
「そして、酸素の作用による本症の発生・進行の機序として、動脈血の酸素分圧が絶対的または比較的に上昇すること、一次的には未熟な網膜血管を収縮させ、その先端部を閉塞させるが、この時期は酸素分圧が上昇しているため、右閉塞部よりも周辺の無血管領域の網膜が脈絡膜からの酸素の拡散を受けているところ、酸素供給の停止により、右無血管帯の網膜は無酸素状態(anoxia)になり、異常な血管新生、硝子体内への血管侵入、後極部血管の怒張、蛇行が生じるとの理論が説かれてきた。しかし、今日においては、本症の原因について、無呼吸発作、呼吸窮迫症候群、未熟児貧血、酸素投与期間、投与量、動脈血の酸素分圧の最高・最低、それらの差及び比、及び輸血量などは、少なくとも単一因子としては本症の発生・進行に有意な影響を与えるものではなく、網膜の未熟性こそ本症の重要な発生因子であるとし、本症は避けることのできない多数の事象の複雑な相互作用の結果生ずるものであり、過剰酸素という要因は、その主因ですらあり得ないとの説も有力に説かれている。」
(四) 同八二枚目裏四行目冒頭から同一〇行目の「昭和四七年当時、」までを削る。
(五) 同八三枚目裏一、二行目を「本件の同四七年当時においても、一部産科、婦人科の医書に反対の記述をみるものがあるものの、未だこれら施設で一般的常例的に実施される段階には至つていなかつた。」と改める。
二そこで次に、控訴人病院眼科浦和安彦医師が、被控訴人幸人についてとつた医療上の措置に、被控訴人ら主張のような注意義務違反が存するかにつき検討する。
(一) 未熟児網膜症について
本症の歴史的背景、症状、原因、予防、治療法等については、さきに認定(原判決引用)したところであるが、要するに、本症は新生児中、主として未熟児に発生する眼疾患であり、<証拠>に照らしても、未熟児中、相当割合に発生をみるが、所謂Ⅰ型といわれる症例は自然治癒(寛解)傾向が強く、高度の弱視や失明に至る割合は僅かであり、また、Ⅱ型、混合型といわれる激症タイプは失明率は高いとしても、その発生自体は極めて低率である(従つて、小児眼科、就中、未熟児眼科に関心の低い一般臨床眼科医にとつては、前記((原判決七五枚目表後半部分))のような植村医師らによる本症発生の指摘、警告があつたとしても、これまでは必ずしも馴染みの深くない、関心の比較的遠い疾患であつたと思われる)。しかし、従来自然寛解しない症例に対する著効ある治療法は見出されていなかつたものであり(薬物療法も一部研究者を除いて有効と認められるに至つていないことは、この点に関する原判決の理由説示((原判決九三枚目表七行目から同裏三行目まで))のとおりであり、これを引用する)、また、今日においても、本症の発生・進行の機序は不明であるとする研究者が多い。
ところで、本症の診断は、眼底検査の方法によつてなされるが、<証拠>に照らすと、一般に眼底検査は熟練した技術を要するものであり、ましてや未熟児の眼底に至つてはこれを見たことすらない眼科医も少なくなく(後記光凝固法を本症に施行した先駆者である永田医師も、大学の医局に在局中、未熟児の眼底を見たことは一回もなかつたと述べている)、成人の眼底検査をなし、かつ、これに光凝固を施術しうる技術を有する眼科医といえども、未熟児の眼底検査をなし、本症状を観察、判定しうるに至るには、なお約半年ないし一年の修練を要するとされていることが認められる。
(二) 光凝固について
<証拠>によると、以下の事実を認めることができる。
光凝固法は、一九四六年独逸のマイヤーシュヴィツケラートの創案開発に始まり、その原理は、太陽光線を虫眼鏡で焦点に集光するとその部分が灼けるのと同様の原理で、眼底網膜上に焦点を置いて光を集束し、その熱によつて網膜の患部(蛋白質)を凝固するもの(謂はば網膜の患部を焼毀破壊することによつて病勢の進行を抑止するもの)であつて、当初は成人の網膜剥離の治療に用いられて著効を挙げたが、その後次第に他の成人の眼疾患の治療にも適応領域を拡げ、その有効性は広く承認されていた。我が国へは昭和三〇年代に入つて紹介されたが、光凝固装置が初めて導入されたのは昭和三〇年代後半に入つてであり、しかも、右装置は高価であるため、昭和四〇年代に入つても、これを設置した医療機関は必ずしも多くはなかつた。
光凝固法は、右のように本来は成人の眼疾患に対する治療法として施術され普及していつたものであるが、天理よろづ相談所病院眼科の永田誠医師は、従来著効ある治療法の見出されていない未熟児網膜症の患児の網膜に光凝固を用いることを考え、昭和四二年二例の本症にこれを施行した。その結果同医師は頓挫的に本症の進行を阻止できたとして、その有効性を同年秋の第二一回日本臨床眼科学会に報告、提唱し(雑誌臨床眼科同四三年四月号二二巻四号別冊)、同四五年更に四例につき報告し、「光凝固による劇的な進行停止と治癒をまのあたりに見て、本症は適切な適応と実施時期をあやまたずに光凝固を加えることにより、ほとんど確実に治癒しうるものであり、重症の瘢痕形成による失明や高度の弱視を未然に防止することができるとの確信をもつに至つた」(同雑誌同四五年五月号二四巻五号)と述べ、続いて同四七年には、それまでの二五症例につき総括的に報告すると共に、「今や未熟児網膜症発生の実態はほぼ明らかとなり、これに対する治療法も理論的には完成したということができるので、今後はこの知識をいかに普及し、いかに全国規模で実行することができるかという点に、主なる努力が傾けられるべきではないかと考える」(同雑誌同四七年三月号二六巻三号)と論述している。尤も、未熟児の眼底に対する光凝固の施術は、対象が新生児、殊に未熟児の網膜であり、そこに凝固の禁忌帯を避けながら(誤つてこれを凝固すれば不可逆的な失明を招来する)、折には数百発に及ぶ光凝固を適正に打込むもので、高度の技術を要するものである。
(三) 本件当時における本症の光凝固の医療水準について
1 昭和四三ないし四五年
前認定のように、永田医師の本症二症例に対する光凝固の成功が日本臨床眼科学会に報告されたのは昭和四二年秋であり、これが雑誌「臨床眼科」に掲載されたのは同四三年四月であつたが、<証拠>を綜合すると、右永田医師の発表に対する反応は、学会において、我が国の小児科専門綜合病院の嚆矢たる国立小児病院の眼科部長(その後慶応大学医学部眼科教授)で、本症研究の権威と目される植村恭夫医師の「光凝固法が、発育途上にある未熟な網膜に何らかの悪影響を与えるおそれはないか」との質問はあつたものの、難しい機械の扱いに馴れた手術の名手の永田医師にして成し得たこと、との感想を抱いた専門医もおり、一般臨床眼科医としては、もともと眼科という領域では外来患者の治療が主であつて、未熟児施設等他所に赴いて診察するような状況はそれまで一般化していなかつたこともあつてか、関心は極めて低く、また多少の関心をもつものも、本症については過去多数の治療法が、その都度著効ありとの触れ込みで発表されながら、いずれもやがては追試等によりその有効性を否定されて消えて行つた歴史があることから、精々、光凝固に対しても「またか」という程度の受け止め方が少なくなかつた。それは一つには、動物実験では本症と同様な症状を動物の眼底に生じさせることはできるものの、これを網膜剥離に至らせることが難しいため、動物実験による確認を経ていない、ということも与つていたものと思われる。その後、昭和四五年までに刊行された一般臨床眼科医向けの解説書においても、四三年刊で早くも本症の治療法として光凝固法を解説するものもなくはなかつたものの、四五年刊でなおこれに触れていないものもあり、また、眼科関係の医学雑誌にも僅かながらこれに触れる論説がみられたが、それらは簡潔かつ評価を留保した紹介的な記述が多かつた。光凝固装置を備えた眼科医療施設で、永田医師の光凝固法の追試が行われ始めたのは昭和四五年ころからであつた。
2 昭和四六年
<証拠>を綜合すると、次の事実を認めることができる。
昭和四六年になると、光凝固装置をもつ大学病院、綜合病院などの眼科医のうちから、永田医師による本症の光凝固についての追試の症例が医学雑誌上に報告されるようになつた。その結果は概して良好なものであり、その他眼科医学関係の刊行物に現われた前記植村恭夫ほかの我が国未熟児眼科の研究者らの論調も含めて、その評価は、直ちに実地医家に普及すべきものでないとし、或いは効果に限界ありとし、更に、或いは、なお将来に待つべきものありとするものなど、一定の条件ないし留保を付するものも見られたものの、おおむね肯定的なものであつた。尤も、他方なお本症の治療法として適切なものなしとして、光凝固に触れない眼科全書も存在した。
3 昭和四七年
<証拠>を綜合すると、以下の事実を認めることができる。
昭和四七年に入ると、小児眼科、就中、未熟児眼科の研究者らによる本症に対する光凝固法施術の症例報告、及び右光凝固について記述する論説等で、眼科医学雑誌その他医学刊行物に発表されるものが、更に多数を数えるようになつた。また、この年、永田医師は本症に対する光凝固につき、前記のような二五症例にわたる総括的な論文を発表した。
右の症例報告、論説等は、少なくとも本症に対する光凝固治療の有効性を真向から否定するものは見当らず、概ねは好意的もしくは賞讚的視点をもつて、何らか本症に対する光凝固の有効性を承認するものであり、中には、その有効性は「確認され」、或いは「確立されている」と記述する論説もあつたが、他面、これに反する論述も見られ、また、その後前記植村医師、国立小児病院と共に我が国小児専門医療機関の先駆ともいうべき大阪市立小児保健センター眼科部長の湖崎克医師、名古屋市立大学医学部眼科教授の馬嶋昭生医師ら、未熟児眼科の権威と目される人達をはじめ、本症にかかわる眼科医、研究者らには、基調として本症への光凝固の適用に何らかの疑問や限界の存在を指摘する者が少なくなかつた。そこでは、本症には未だ診断・治療基準は確立されておらず、これに対する治療法としての光凝固は、過剰治療その他の問題が多く、現状では光凝固以外に治療法がなく今後に期待されるものの、なお、実験、研究段階であつて検討を要し、その有効性は未だ確立していないし、その知識の普及定着もないとする趣旨の論調が目立ち、本症の研究者でも当時光凝固の適期などを自信をもつて判る医師はいなかつたと評する者もある。要するに、昭和四七年度においては、本症に対する光凝固についての文献が相当数発表され、それらのほとんどは好意的賞讚的に「永田の光凝固」に何らかの肯定的評価を呈したのであつて、もともと、光凝固が成人眼科領域で各種眼科疾患に著効を奏してきたこと、旧くからの本症研究者である永田医師の発表であること、本症に適切な治療法がないことなどから、前記植村医師がいみじくも「永田医師の光凝固が出て、もうこれで失明がなくなるんだというふうに」初めは「とびついた」(昭和五三年三月一七日京都地裁における証言)と形容したような傾向が、この頃の本症に関心をもつ眼科医、研究者らに窺われないではないが、他方、本症への光凝固の適用になお問題点ありとして疑問、留保を呈する見解も存在したのである。そして、永田医師の前記総括的論文に対する反響としても、本症の治療法として果たして光凝固が適切であるのか、光凝固によつて失明を喰い止めることのできない症例についての永田論文の説明は不十分でないか、光凝固は活動性病原を瘢痕化するだけで、成長後の眼の発育機能に及ぼす影響は不明であるから、同論文のような確定的な結論は相当ではないのでないか、などの疑問、批判が存在した。臨床上激症型の本症の対応に悩んでいた研究者の中には、永田論文の確定的な表現は時期尚早との印象を抱いたものもあつた。そしてこれらの人々の中においてもそれ以後「永田の光凝固」に対する認知が確定した時期については、評価が必ずしも一致せず、厚生省研究報告までは本症の診断・治療基準は確定していなかつたとし、或いは追試がほぼ終つたのが昭和五〇年ころであるとし、更には、今日に至るもなお本症に対する光凝固の有効性は確立していないとする者もある。
4 昭和四八年以後
イ <証拠>によると、以下の事実を認めることができる。
昭和四八、四九年においても、本症に対する光凝固について引続き追試報告を含む相当数の文献が医学雑誌等に見出され、適期に施術した治療効果の有効性、確実性を報告し、或いは、説述するものも多かつたが、なお、本症に対する診断・治療基準は確立しておらず「永田の光凝固」は未だ実験段階で普及していないとする意見も発表されていた。昭和四九年の日本眼科学会では本症に対する一応の学問的基準を明示する要があるとの見地から、永田誠、植村恭夫、馬嶋昭生の三医師が、本症に関する光凝固についての研究結果を、昭和五一年度の同学会において宿題報告すべきことが決定された。
ロ ところで、<証拠>を綜合すると、次の事実を認めることができる。
昭和四九年三月、岐阜地方裁判所で、同四四年一二月に出生した未熟児が高山赤十字病院で受診中、本症により失明に至つた事案(以下高山日赤事件という)につき、本症に対する光凝固治療が当時既に一般医療水準にあつたとする判断を前提とする医師側敗訴の判決がなされたが、そのことは謂わば衝撃的に、本症に対する光凝固についての一般臨床眼科医の関心、注目を集める因となり、本症に罹患した未熟児に光凝固を施術しておかないとたやすく責任を訴求されると危惧し、或いは急拠光凝固装置の導入を図る眼科医もあつた。この点に関し永田医師自身、「自分は本症の光凝固がこのような形で普及するとは考えておらず、追試者がゆつくりと現われて、地道に検討してくれることを期待していたところ、前記のような社会的要因から、予想外の普及の経過を辿つた」とし、昭和五一年発表した宿題報告Ⅲ(未熟児網膜症光凝固治療の適応と限界)において「未熟児網膜症の光凝固による治療は、その最初から小児の失明という劇的かつ深刻な事態と直接関連していた為に、これに対する社会的要請が先行し、その結果として試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認、治療法としての確立とその教育・普及という医療の常道を踏まず直接普及段階に入つた」(日本眼科学会雑誌同五一年一一月号八〇巻一一号)と述べている。
ハ 次に、<証拠>を綜合すると、以下の事実を認めることができる。
昭和四九年「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」について植村恭夫を主任研究者とし、永田誠、馬嶋昭生、塚原勇、大島健司、森実秀子らほかを分担研究者とする二一名からなる厚生省特別研究班(厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班)が組織された。その趣旨は「昭和四三年永田らにより光凝固法が未熟児網膜症に応用されるに至つてから、多くの研究者により光凝固、冷凍凝固に関する報告がみられるに至つた。しかし、これらの報告をみても、診断、治療面において医師間においてその基準に統一を欠く点があり(光凝固の適応、限界を定める病期についても、眼科医の間でその意見は必ずしも一致していない)、そのために社会的にも問題を起こすに至つた。従つて、現時点において網膜症研究の主だつた眼科研究者とこれに新生児医療の研究に卓越した小児科、産科の研究者の協力を求め、かつ、視覚障害児の実態と指導の開発の権威者を加えて、研究班を組織し、主たる目的を網膜症の診断治療基準に関する研究におき、その基準を作成」する(同研究班報告)ことにあつた。そして、同研究班の研究報告は、「日本の眼科」昭和五〇年八月号(四六巻八号)に掲載されて一般臨床眼科医にも広く知られるところとなつた。同研究報告の示す本症の診断基準として、「Ⅰ型、Ⅱ型及び混合型とその臨床的分類」並びに「瘢痕期の程度についての分類」については、原判決事実摘示中「被告の主張1・(一)」(原判決四〇枚目表四行目から四二枚目裏二行目まで)記載のとおりであるが、同報告は更に、「未熟児網膜症の治療は、本疾患による視覚障害の発生を可及的に防止することを目的とするが、その治療には未解決の問題点がなお多く残されており、現段階で決定的な治療基準を示すことは極めて困難である。しかし、進行性の本症活動期病変が、適切な時期に行われた光凝固、冷凍凝固によつて治癒しうることが多くの研究者の経験から認められているので、未熟児網膜症研究班において検討した本症の臨床経過の分類基準にもとづき、各病型別に現時点における治療の一応の基準を提出することとする」として本症に対する光凝固の治療基準についても報告している。しかし、これらの問題点については、各班員の間に必ずしも意見が一致していた訳ではなく、またⅡ型については、眼科医班員の中にも、その症例に遭遇した経験の全くない者もあり、研究班報告は謂わば各班員の意見の最大公約数的集約であつた。研究班報告はその示した治療基準について「現時点における研究班員の平均的治療方針であるが、これらの治療方針が真に妥当なものか否かについては、更に今後の研究を俟つて検討する必要がある」とし、更に「Ⅰ型における治療は自然瘢痕による弱視発生の予防に重点が置かれているが、これは今後光凝固治療例の視力予後や自然治癒例に見られる網膜剥離のごとき晩期合併症に関する長期観察結果が判明するまでは、適応に問題が残つている。Ⅱ型においては、放置した際の失明防止のために早期治療を要することに疑義はないが、治療適期の判定、治療方法、治療を行う時の全身管理などについては、尚今後検討の余地が残されている」と述べている。
ニ 前記治療基準に関連し、<証拠>を綜合すると、次の事実を認めることができる。
前記治療基準に関し、永田医師は自らの光凝固の治療部位について、①昭和四二年秋の日本臨床眼科学会で発表した報告(雑誌臨床眼科掲載は前記のとおり同四三年四月)では「網膜周辺部の血管新生の盛んな部分に対して全麻下に光凝固を行なう」とし、②同四三年一〇月雑誌眼科(一〇巻一〇号)発表の論文においても「光凝固によつて新生血管と共に異常な網膜を破壊する」と述べ、③同四五年五月号の前記臨床眼科掲載論文においては「滲出性病巣および新生血管ならびにこれより末梢側の無血管帯に多数の光凝固を加えた」といい、更に④同年一一月号の同誌(二四巻一一号特集小児眼科)上では「凝固部位はdemarcationline(境界線)を中心にその周辺の無血管帯、中心側の血管増殖部分を二ないし三列に凝固するが、血管増殖部を凝固しても出血を起すことはない」と論じているが、⑤昭和四七年三月のジャパニーズ・ジャーナル・オブ・オフサルモロジーの論文(英文―一六巻三号)では、「血管増殖部と無血管帯との境界線が光凝固の主たる目標である、増殖した血管自体を凝固することは必要であるとは思われない」旨述べて記述に変化がみられる。尤も、⑥第二五回日本眼科学会で講演のうえ、同年同月の前記臨床眼科に掲載された総括的報告では、「無血管帯との境界線のみならず、無血管帯を散発的に光凝固することを試みている」として血管増殖部への凝固については明確に触れるところがないが、⑦同五一年前記日本眼科学会雑誌一一月号に掲載された宿題報告Ⅲに至つて「光凝固の治療経験を積むに従い、活動期病変の進行停止には、増殖した新生血管そのものの凝固は全く必要でないと知つた」と述べ、治療部位の変遷を明確に示している。なお、治療適期については、主としてⅠ型についてであるが、前記①の報告では、オーエンスのⅢ期のはじまり、②の論文では同Ⅱ期からⅢ期に移行した時期(オーエンスの分類については、原判決事実摘示中請求原因2・(三)((本症の臨床症状及び経過))の部分((原判決六枚目裏二行目から八枚目表五行目まで))のとおりであることは当事者間に争いがない)、③の論文においては、同Ⅲ期と述べ、④の論文及び昭和四六年六月の日本新生児学会雑誌(七巻二号)の論文では、ほぼオーエンスの分類に従つた永田医師らの病期分類の第三期に至りなおも増悪の認められるものとする(右三期はオーエンスのそれと全部的には必ずしも合致しない)、更に⑥の講演ではオーエンスのⅢ期よりもⅡ期の終りであるといい、⑦の報告では昭和四九年厚生省特別研究班報告の分類による3期の中期としている。拠るべき分類基準が時期により異り、また、その内容も微妙なものがあるから、″永田の適期″が時期により変遷があるとは必ずしも断定し難いけれども、適期の判定については、前記⑥の講演において、永田医師自身「光凝固実施の要、不要に関する判別はきわめて厳重なものでなくてはならず、そのためにはかなり早い病期からの継続的経過観察と、適確な判断を下すための知識と経験の蓄積が必要である」として、その困難性を指摘しているところである。
5 昭和五〇年以後
(1) <証拠>を綜合すると、以下の事実を認めることができる。
イ 昭和五〇年代に入つてからも、以後今日まで、我が国未熟児網膜症の代表的ないし第一線的研究者である眼科医らによる多数の文献、及び本症の医療過誤訴訟での法廷における証言がみられるが、それらは一応本症に対する光凝固の効果を承認し、他に適当な治療方法のない現状においては、これに頼るしかないとの基調を示しつつも、「本症には多くの問題があり、決定的な治療基準を示すことは極めて困難である」「光凝固法は確定した治療法とはいえず、未だ検討的、実験的段階にある」「現状では有効であるとはいえない。判らないというのが本音である」「これが本症に有効であるかどうかは、まだ研究中に属することで、研究者が行うのは許されるが、一般的な方法として応用する段階にはなつていない、本症は元来放置しても大部分のものは自然治癒する病気であつて、かかる病気に対する治療効果の判定は容易ではない、欧米では本症に対する光凝固法に効果があるかどうかは疑問があるとして、研究的に行つているごく少数のものを除いてはほとんど実施されていない」とか、「激症型に効果があるかは疑問」「Ⅱ型には有効無効両論があり、今後の研究課題」「Ⅰ型は徹底的に待つて光凝固をしないにこしたことはないが、Ⅱ型は放置すると失明するから網膜への侵襲と失明を秤にかける価値はある」「この方法が高く評価される一方、急速に進行増悪する症例では光凝固法によつても効果の不良であつた例、全円周凝固によつて眼球が変形した例、硝子体混濁のため十分光凝固が効果を示さなかつた例、全身状態不良で保育器より出せずに凝固の時期を逸した例などの問題が提出されている」とか、或いは「光凝固が成育途上の未熟児の眼に被害を与えないかの危惧をもつ」「副作用も含めて最終的効果は不明である」などと述べるなどして、それまでに比し懐疑的傾向を強める大勢にあつた。
ロ 本症の光凝固に対し、右のような懐疑的傾向が大勢を占めたのは、一つには前認定のような、従来適切な治療法がなかつたため、新規有効な治療法との期待をもつていささか性急に受け容れられたとされる状況と、高山日赤事件第一審判決以後、光凝固を行つておけば責任追及を免れ得るとの安易な認識が一部臨床医家の間にないではなく、光凝固乱用の危惧が生まれたことに対する反省と警戒が与つて力があつたと思われる。しかし、その主要な理由は、「永田の光凝固」に対し、①従来多くの追試、検討がなされてきたに拘らず、もともと本症は自然治癒傾向が強く、その大半は放置しても自然治癒する一方、光凝固を施しても救い得ない症例も報告されていることから、光凝固の成功報告症例は果たして光凝固を行つたから治癒したのか、光凝固を行わず自然の経過を待つても同じ結果に立ち至つたのではないか、即ち光凝固は果たして実際に有効であるのか、②有効であるとするには科学的に証明されることが必要であるが、そのためのコントロールスタディを経ていない以上有効とはいえないのではないか、③未熟児の成育途上の網膜にこれを破壊する光凝固という侵襲を加えたことが、将来どのような影響を及ぼすのかの余後の問題、即ち晩発性合併症発生の有無などの点を見極めないと、治療法としての確立は云云できないのではないか等の疑問が指摘されていたところにあつた。
ハ 右①の問題につき、永田医師はその光凝固を施した本症の症例につき、適期に施術したものではこれまで両眼失明例はない(但しⅡ型については光凝固が有効に働かないものがあるが、もともとⅡ型は稀であるうえ、発生率は減少しつつある)とし、また同医師の最近の研究によれば、生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児約二〇〇例につき、本症(Ⅰ型、Ⅱ型を含む)発症率六三・二パーセント、そのうち光凝固を施したものが一三・五パーセントで、失明率は一・〇二パーセントであつた、これはアメリカなどと較べて可成り低いとして(いずれも同医師の当審証言)その有効性を強調している。しかし、前記植村恭夫医師は「生下時体重一〇〇〇グラム以下の極小未熟児は失明率が三分の一位で、光凝固が行われるようになつた前後でその率に変りはない」(昭和五三年京都地裁における証言)とし、徳島大学医学部眼科教授の三井幸彦医師は「本件の患児一〇〇名中、九〇名位は放置しておいても治癒し、残り一〇名中、九名は或る程度症状は進行するが結局は治癒する、従つて、失明するのは一〇〇名中、一名位であるから、光凝固で治癒した証明にはならない」(同五二年高松地裁における証言)と説明するなど、他の本症研究者の間では右永田説に疑問を呈するものが少なくなく、光凝固を行つたにも拘らず成功しなかつた例を報告し、或いは指摘している(殊に激症型のものについては、永田医師も認めるように、光凝固が働かないもののあることが認められている)。
ニ 昭和五一年前記馬嶋昭生医師は、光凝固が小児の眼に永久的瘢痕を残す侵襲である点で、その施術の必要の局限的時期を探究することと、施術により危惧される副作用、晩発性合併症の対比的経過観察を目的として、片眼のみを凝固してその経過を非凝固眼と対比する所謂片眼凝固を行い、検眼鏡的に網膜症進行に左右差を認めず凝固眼と非凝固眼の厳密な比較検討の対象となつた一二例につき、うち二例は他眼(非凝固眼)がなお進行の傾向を示し、結局両眼とも凝固しなければならない結果となつたが、残りの一〇例は凝固眼も他眼もいずれも瘢痕一度で治癒し、眼位、屈折状態、網膜血管蛇行度に差異を認めない結果を得た旨を報告した(雑誌臨床眼科三〇巻一号)。
ホ 本症に対する光凝固法のコントロールスタディ(対照実験)の問題は、そもそもアメリカにおいて強く指摘されるところである。欧米においては、光凝固法を追究し、ないしはこれを支持する本症研究者も少数存するが、概ねはこれに消極的であつて、イギリスのムッシンのように、未熟児集中治療室(NICU)が発達すれば本症は予防可能であり、光凝固法を用いるべきでないとする意見もあり、アメリカでは有効とする新治療法が学会に発表され、それに対する追試が繰返される過程でその有効性が確認されるという従来の手法は顧みられなくなり、科学的証明手段としてコントロールスタディが重視される結果、本症に対する光凝固法の適用については、それがないとして極めて冷淡である。確かに、前記馬嶋医師の片眼凝固も僅か一二例を対象としたものに過ぎず、本症の光凝固について、現在までのところコントロールスタディと称し得るものは存しない(なお、永田医師は右の批判に対し、コントロールスタディは救い得べき非凝固眼を犠牲に供して凝固眼と対照しようとするもので、医療倫理上問題がある旨反論しているが、右批判論者らは、本症の光凝固がそもそも有効か無効か、不明であることを前提に置いて、だからこそコントロールスタディが必要なことを主張しているのに対し、永田医師の右反論は、光凝固の有効を前提に、これを受けられない非凝固眼は犠牲となるとするのであるから、論争の基盤が喰違つているといわざるを得ないし、有効といつて了えばもともとコントロールスタディは必要がない訳である)。
研究者の中には、本症の光凝固は「追試報告が多くなされ、その有効性が確立されたかにみえた、しかし、その後欧米から冷凍凝固の無効報告が出されたり、日本における有効報告にはcontrolがとられていないことが指摘されたりして、現在では、凝固治療法は未だ実験的な治療法であつて、有効か否かを判定するには、大きなcontrolled studyが必要である、というのが世界的な意見のようである」と指摘する者もある(菅謙治・昭和五九年六月「眼科」二六巻六号別冊)。
ヘ 永田医師は、本症に対する光凝固が将来に与える影響への危惧について、同医師が本症に光凝固を施し始めてから既に一九年を経過するが、適期に治療したものについては、その間晩発性合併症等の問題は全く生じていない。むしろ自然治癒による瘢痕の方が将来に有害であるとしている。タスマンは既に昭和四一年、本症に罹患した子が数年ないし一〇数年して網膜剥離や網膜裂孔を生じた例を報告しており、前記馬嶋昭生医師も昭和五七年、軽度の瘢痕を残して治癒した本症の一部に、晩発性網膜剥離が発生することが明らかとなつてきている、と述べている(臨床眼科同年八月号三六巻八号)。しかし同時に同医師は、剥離眼の一例は本症活動期に光凝固を受けているが、この一例だけでは、光凝固を行つても剥離したのか、行つたため剥離したのかを検討することができないので、更に今後残された問題となるとも述べており、その他の本症研究者からも、本症に対する光凝固の施行は晩発性網膜剥離を増加させる可能性ありとし、光凝固により人工的瘢痕を積極的に作り出したものと、自然治癒による瘢痕とについて、今後長期の追跡をみてゆかねばならない、との指摘が出されている。永田医師自身も、自然治癒にまかせた場合と、光凝固した場合とで晩発性剥離に有意の差があるかどうかは、結論が出ていない(当審証言)、光凝固によつて形成された人工的網膜瘢痕と自然治癒による一度の瘢痕と、どちらが将来の視機能にとつてより望ましい状態であるかということは、今後更に長期に亘る追跡の成績が明らかにならないと、どちらとも決しかねる(前記昭和五一年宿題報告)とも述べているのである。
(2) 以上に照らすと、現状においては、本症に対する光凝固法の有効性は少なくともⅡ型混合型については、全面的にはこれを認め得ないものであり、Ⅰ型についても、もともとその適期の判定には熟練を要し術者により光凝固法に対する立場や経験、技術に基づく主観的差異が予想されることからくる評価の困難性は絡むものの、必ずしも適応しない症例があるものというべく、また反面、その施行による治癒例も光凝固なくしては治癒しなかつたものとは断定しえないのであつて、その中には本来自然治癒に至るべきものが存することも否定できない。ただ、これまでなされてきた多数の追試報告、症例報告に鑑みると、適期施行を前提に相当程度の蓋然性をもつて、一定限度でのその有効性を承認しうるものとするのが相当と解される。尤も、それにしても明白な科学的証明という点では、コントロールスタディを欠くことは否みえないところである。また、光凝固による瘢痕と自然治癒による瘢痕との問題についても、永田医師の、今日までの経過観察において問題となる異常を見出していないとの報告はあるとしても、成長後両者の間に有意の差が出るか、いずれにより問題性が生ずるかについては、なお今後多数症例について長期の経過観察と検討を要するものというべきである。そして、このようにみてくると、昭和五〇年以降の本症研究者らにおける光凝固への懐疑的傾向は、必ずしも故なしとしないものであつたといわなければならない。
6 浦和医師の注意義務について(その一)
イ 思うに人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるが、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時の、いわゆる臨床医学の実践における医療水準であるところ、これを本件について考えれば、右医療水準にあるといいうるためには、新らしい治療法が開発提唱せられた場合、その医療領域における研究者らによる追試等を経て、一定の診断・治療基準によるその有効性が定説的に承認され(実質的にも有効でなければならないことはもとよりである)、その知見が平均的な一般臨床医家に普及していなければならないというべきである。そして、その知見はあるが設備・技術等の関係上その施術が困難であるときは、転医義務が問題となりうるが、右の一定の診断・治療基準による有効性の確認とその知見の普及のない限り、一般臨床医家としては、右治療法を行い、或いは説明し、転医する法的義務は負わないといわねばならず、また、他の医療機関に照会したり、文献を検索して治療法を探究し、更にはその治療法を患者側に告知するが如き義務も法律的に要求されているものとすることはできない。むしろ治療基準も有効性も未だ確立されていない新規治療法を患者に実施し、或いはその存在を告知することは、逆に別個の医療倫理の問題や法的責任の問題を惹起するおそれなしとしないと思われる。
ロ しかるに、叙上認定したところからすれば、昭和四三年永田医師が本症に対する光凝固法の適用とその有効性を報告発表してから、当初は反響が少なく、昭和四六年ころからその追試、症例報告等が見られるようになり、同四七年に入ると症例報告、論文等これに関する文献も数を増し、その多くは好意的賞讚的な視点においてその有効性を肯認する如くではあつたものの、本症研究の権威者の一人である植村医師始め研究者の間には、その頃及びその後において、本症に対する光凝固法の適用は未だ実験、研究段階にあつて検討すべき点が多く、その有効性は確立に至らず、その知識の普及定着もないとの主張もなされていたものであり、更に昭和四八、四九年ころには日本眼科学会において植村、永田、馬嶋医師らによる本症の学問的基準についての宿題報告の決定があり、前後して高山日赤事件の第一審判決が報ぜられて一般臨床眼科医等にも衝撃的関心をよぶこととなつたが、一方その間光凝固の治療部位について永田医師自身に当初のそれからの変更が見られ、また、同年には植村医師を主任研究員とし、永田医師も研究員に含む本症の診断及び治療基準の研究のための厚生省特別研究班も設置されて、その結果は翌年夏発表され、次いで昭和五〇年以降に入ると、他に適切な治療法が見出されない現状では結局は光凝固法に頼らざるを得ないとの基調を示しながらも、コントロールスタディの点も絡まるその有効性、及び自然治癒瘢痕との対比における晩発性合併症などの問題から、本症研究者らによる本症に対する光凝固法の評価は、懐疑的傾向を強めることとなつたというのであつて、このような本症の光凝固についての提唱・報告とその展開、これに対する反響、評価の昭和四六、四七年ころまでの推移、殊に四七年度におけるその状況に、もともと本症光凝固の問題は、眼科領域のうち小児眼科、就中、未熟児眼科という、謂わば特殊な限られた眼科領域に属する問題であるうえ、症病自体、近年未熟児保育の進歩に伴い極小未熟児を含む未熟児の救命が多数となると共に増加したものである反面、失明率が低くその大半は自然治癒に至るものであることから、当時としては一般臨床眼科医にとつて比較的関心の遠い問題であり、従つて、本症研究者らによつて症例報告、研究発表、論文等が学会、医学刊行物等で公にされても、これに特別の関心を抱くものは格別、そうでない一般臨床眼科医にたやすくその正しい知見を期待することは必ずしも容易ではないと思われること、及び昭和四八年度以降の事後的状況、殊に、昭和五〇年代以降本症研究者らに懐疑的傾向が強まつたことなども考え併せると、昭和四七年の本件当時(被控訴人幸人が浦和医師に受診した同年一一月二八日当時)、本症に対する光凝固法は未だ当該専門領域における追試、検討の段階にあつたものとみるのが相当であり、一般臨床眼科医(綜合病院の眼科医を含む)の医療水準として、その治療法としての有効性が確立され、その知見が普及定着していたものとすることは、到底できないというべきである。被控訴人らは本症に対する光凝固法が昭和四七年当時医療水準にあつたとみるべき理由として種々主張するが、以上のところに照らし、いずれも採用できない。なお、冷凍凝固法の本症への適用は、昭和四六年東北大学医学部で試みられたものであり、前同様、本件当時臨床医学の医療水準にあつたものとみることはできない。
ハ ところで、被控訴人らの主張する浦和医師の過失は、要するに同医師が被控訴人幸人の本症につき、薬物療法、光凝固法或いは冷凍凝固法による治療を受ける機会を失わしめ、同被控訴人を失明に至らせたところにあるとするのであるところ、前記のとおり、本症に対する光凝固法又は冷凍凝固法が未だその治療法としての有効性の確立並びにその知見の普及定着をみるに至らず、臨床一般の医療水準になかつたものである以上、同医師自身これら治療法を施術すべき注意義務が存しないことはもとより、右有効性の確立を前提とする説明義務、転医義務、自己研鑽義務、調査義務、文献検索義務、照会義務等の違反も認める余地がないものといわなければならない。また、薬物療法の有効性が認められていないことは前認定のとおりであるから、これを受療させなかつたことも注意義務違反ということはできない。
(四) 浦和医師の注意義務について(その二)
尤も、以上のところから浦和医師に、被控訴人幸人に対する医療上の過誤が存しないと直ちに結論づけうるかについては、当裁判所は、なお以下の検討を要するものと考える。
1 <証拠>を綜合すると、以下の事実を認めることができる。
浦和医師は、被控訴人幸人出生当時控訴人病院の嘱託として週二回眼科に勤務し、昭和四七年一一月から同病院の眼科部長として常勤するようになつたが、本症については同四一年ころから自ら買い求めた眼科専門書等によつて知識を有し、その後も「臨床眼科」など専門雑誌によつて本症の知識を得ており、本症の発症については生後三、四か月以内、ときには五か月位にも発症するものと認識していた。同医師は本件当時控訴人病院において、小児科から依頼があると、倒像検眼鏡、直像検眼鏡を使用して未熟児の眼底検査を実施していたが、その実施例は毎年一〇例位であり、昭和四二年から同四七年までの間に本症罹患児を五ないし八名発見し、いずれも自然治癒した経験を有し、なお、昭和四七年度には未熟児二〇名位の眼底検査を実施し、うち一名に本症の初期症状を発見したが経過を見るため放置し、一か月後位に再び眼底検査をしたところ自然治癒した経験を有していた。
ところで、被控訴人幸人の祖母よし枝は、前認定のとおり助産婦から保育器に収容された未熟児は眼が悪くなるから診察を受けた方がよいと助言されたため、昭和四七年一一月二八日に被控訴人幸人を連れて控訴人病院の眼科に赴き、浦和医師に対し、その旨及び被控訴人幸人が控訴人病院で未熟児で出生したことを告げ、同医師による被控訴人幸人の診察を受けたが、同医師は被控訴人幸人の両眼底を診察し異常を認めなかつたので、その旨よし枝に告げ、なおも大丈夫ですかと問いかける同女に対し、心配ならば半年後位に来院するように指示した。その後被控訴人幸人は家人からあやされた際に横を向いて笑うなどしたために、斜視かと疑つて心配したよし枝は、昭和四八年三月一二日に再び同被控訴人を伴い控訴人病院の眼科を訪れ、浦和医師の診察を受けたところ、同医師は被控訴人幸人の両眼の瞳が白く見え、反射鏡で照らしても光が眼底に届かず、眼底を見ることができなかつたので、細隙燈検査を実施して眼底の所見を得ようとしたが、同被控訴人が動くため行うことができなかつた。浦和医師は被控訴人幸人に対する右診察の結果、同人は白内障に罹患しているものと考え、カルテにもその旨記載し、よし枝に対し被控訴人幸人は白内障に罹患しているが、将来手術すれば視力が得られると告げ、同症に対応する点眼薬を投与した。
<証拠>中、右認定に反する部分は前掲各証拠に照らし措信できない。
2 そうすると、浦和医師は、臨床眼科などの専門雑誌によつて、本症についての一応の知識を有し、その発症は生後三、四か月からときには五か月位までの間にあることを認識していたのみか、数例の臨床経験も有していたものであり、被控訴人幸人の来院受診の趣旨が本症の発症を憂慮し、その罹患の有無の診察にあつたことはもとより十分了知していたものであるから、仮に、生後二か月半余の昭和四七年一一月二八日診察時点において、患児の本症発症は未だ認められなかつたとしても、なおその発症のおそれある期間内については、引続いての慎重かつ継続的な経過観察が必要であつたものであり、少なくとも半年後の来院指示の如きはその受診の趣旨からは全く無意味なものであつたといわねばならない。尤も、前掲浦和証言によると、当時同医師は被控訴人の祖母よし枝に一か月後、二か月後及び半年後の来院を指示したのに患児が指示通りに来院しなかつた旨を強調し、前掲乙第三号証の一(カルテ)にもその旨を示す「一m、数m〜半年後に来る」の記載がある。しかし、一一月二八日被控訴人幸人の祖母よし枝は助産婦から注意されて眼の障害の有無について心配したから来院したものであり、その後も昭和四八年三月一二日に受診して白内障と診断されると、同医師から将来手術すれば癒るといわれながら、同年五月二五日には山際眼科に診察を受けに赴いていることからも窺えるとおり、被控訴人幸人の家族らは同被控訴人の眼の障害については神経質な程心配していたと認められるのであつて、浦和医師が実際一か月後の来院を指示していたものであるなら、右家族らの心情からみて当然指定された時期の前後頃に受診に訪れるのが自然であると思われること、前掲よし枝証言によると、同女はその証言において、浦和医師から半年後の受診を指示され、一か月後の受診指示などはなかつた旨終旨一貫して述べていること、乙第三号証の一の「一m、数m〜半年後に来る」の記載はその用字と記載の体裁からみて、「一m、数m〜」部分と「半年後に来る」の部分は、同一機会に記入されたものではない疑いが強いことなどから考えると、浦和医師が一か月後の来院を指示したとするのは同医師の強弁に過ぎないものと認められ、そうすると、乙第三号証の一の「一m、数m〜」の記載は右強弁と辻褄を合わせるため、後日ほしいままに記入されたものと結論せざるを得ない。更に、昭和四八年三月一二日再び被控訴人幸人来院の際の診断についての原審、当審二回にわたる浦和証言は、「未熟児網膜症に続発する白内障と考えた」「未熟児網膜症の強い疑いをもつた」「未熟児網膜症と感じた」「未熟児網膜症の末期で治癒できない」「白内障の可能性強いと考えた」「幸人のおじいさんが白内障であつたことから幸人のそれも先天性のものでは、との疑いも持つた」などとその判断が本症にあつたのか、白内障であつたのか、著しい動謡がみられて首尾一貫せず、しかも前掲乙第三号証の一によると、同日の幸人のカルテには「白内障」と断定的記載をしたうえ、「先天性?」「(将来手術か)」などとあるのみで(同医師に「未熟児網膜症」、殊に「末期で治癒不可能」とする判断があつたとすれば、この記載は説明不能であろう)、「未熟児網膜症」又はその疑いに関する記載は全くなく、また患児が動いて細隙燈検査が出来なかつたため、本症か白内障かの確認ができなかつたというようなことも述べるけれども、かといつてそれならば機会を改めて細隙燈検査を施行し、病患を究明確認しようとした形跡は一切窺えない。
要するに、浦和医師の証言内容を通観すると、未熟児の眼疾患を憂慮した患家から診察を求められた責任ある医師が、その診察時における認識と判断を語るにふさわしい、信頼するに足る内容の診察をなしたとは到底認め難いのである。結局浦和医師は、昭和四七年一一月二八日被控訴人幸人から本症についての診察を求められておりながら、病患に対する十分な注意を欠いた安易で恣意的な対応によつて、本来引続き慎重な経過観察を要するにも拘らず、六か月後の来院を指示したのみで、被控訴人幸人の本症発症を把握し診断する機会を逸したのみならず、同四八年三月一二日再診の折も同様な態度で適正な診察を尽くさず、ために同被控訴人の眼疾を白内障と誤診したもので、しかも爾後のこれに対する対応においても、カルテの改ざんを含め、自己の不手際を糊塗しようと弁疏強弁に終始している感が深いというほかはない。
そして、以上のところに照らして考えると、被控訴人幸人の本症に対する浦和医師の医療は、著しく粗雑・杜撰かつ誠実を欠くものであつたとの非難を免れ得ないものというべきである。
3 ところで、患者及びその親族等が医療を求めるのは、本来適確な診断とそれに基づく適正な対応による健康の維持・回復であり、従つて医師が故意過失によりその要求に応え得ず患者に損害を与えたときは、医師は医療契約上の責任により、或いは不法行為責任により、その損害を賠償する義務を負うことになるのであるが、それと共に、仮に当該病患につき当時の医療水準において有効な治療方法がなく、その結果健康(機能を含む)の喪失(その最大のものは死である)が避けられないものである場合であつても、患者はなお医師に、医師としてのその全知識全技術を尽した誠実な医療を求めるものであり、医師がその要求を満たすことによつてこそ、患者側は謂わば心残りや諦め切れない想いから免れ、或いはこれを軽減して、回復し得ない結果を受容する心境にもなり、死或いは不治の障害の苦痛に対し、心の平静を保ちうるものである。従つて、医師と患者の医療契約の内容には、単に当時の医療水準に拠つた医療を施すというのみでなく、そもそも医療水準の如何に拘らず緻密で真摯かつ誠実な医療を尽くすべき約が内包されているというべきであり、また医師は本来そのような注意義務を負うものと解するのが相当である。換言するならば、医師が右の義務に反して粗雑・杜撰で不誠実な医療をしたときは、医師のその作為・不作為と対象たる病患について生じた結果との間に相当因果関係が認められなくても、医師はその不誠実な医療対応自体につき、これによつて患者側に与えた精神的苦痛の慰藉に任ずる責があるというべきである(そして、被控訴人らの光凝固受療の機会を奪われたとする慰藉料請求の中には、このような責任への主張も含まれているというべきである)。尤も、右のような責任は、当該疾患から生じた現実の結果(損害)に対しては責任のない行為についてこれを認めるものであるから、当該医療行為ないし医療的対応(作為、不作為を含む)自体に、金銭的慰藉に値する十分な精神的苦痛が肯認されるべきものであるべきであり、その観点からは、医師の医療行為ないし医療的対応が著しく杜撰、不誠実であつた結果軽からざる医療上の過誤が犯されていること、病患に生じた結果が重大(死亡或いは機能喪失など)で、患者側に対する心残りや諦め切れない感情が残存することが無理からぬと思われる事情が認められることなどが、右責任の発生を限定づける要因となるものと解するのが相当である。
4 そして、これを本件についてみると、浦和医師は、本来、本症が生後三、四か月ときには五か月までの間に発症する未熟児特有の眼疾患であり、その病勢の進行如何によつては失明に至る回復不能のものとなるとの認識を有しており、また患者側からも、未熟児であるため本症を心配して来院した旨、受診を求められながら、昭和四七年一一月二八日「六か月後の来院」を指示して、結局被控訴人幸人の本症に対する正確な診断と経過観察の機会を失わしめたものであり、しかも当時本症に対する光凝固法は未だ一般の医療水準になく、他には本症に対する適切な治療法が存しなかつたとはいえ、前認定のように、当時本症に対する光凝固法については、本症研究者らによる追試報告も相当数現われ、その中にはこれを好意的賞讚的に評価するものも稀れではなかつたもので、実際幸人も、後には翌四八年五月二五日受診した山際医師の紹介によつて、天理よろづ相談所病院に永田誠医師の診察を仰いでいるのであるから、同人がその変更に京都の吉川眼科、三重大学医学部と受診していることも思い合わせると、もし浦和医師がその能力を尽して真摯にして誠実な診察を行い、早期に幸人の本症発症とその病質を被控訴人らに知らしめていたならば(浦和医師は過去に一再ならず患児を診察して本症を経験しているのであるから、幸人の場合にこれを発見しえない筈はない)、被控訴人らはたとえ失明が避けえられないものと告げられたとしても、そこに至る過程において能う限りの人事を尽してなお一縷の治療の方途を探究したであろうし、そうすれば恐らく光凝固法を受療する機会にも恵まれて、たとえその結果失明を免れえなかつたとしても、患児及びその両親として尽くすべき手段は尽くしたとの心残りのない想いで結果を受容することも可能であつた筈である。しかるに、被控訴人らは、わざわざその危惧の故に受診したにも拘らず、「異常がない」「心配なら六か月後に来るように」「白内障で将来手術をすれば癒る」などといわれて、全く不知の間に本症に罹患し、失明に進んでいた訳であつて、その間患者として何らの手を尽くすこともなく、或いは唯一の可能性であつたかも知れない光凝固法受療の機会を捕える余地さえ与えられずに、無為に過ぎざるを得なかつたことは、被控訴人らそれぞれにとつて、諦め切れない心残りとして、長期にわたり痛恨の想いを拭い難いものがあるであろうことは想像に難くない。そして被控訴人らのかかる精神的苦痛は、前認定のような浦和医師の著しく杜撰で不誠実な医療によるものといわなければならない。
三控訴人の責任
そうすると、控訴人が浦和医師を雇用し、控訴人病院において医療行為に従事させていたことは当事者間に争いがないところであるから、控訴人は民法七一五条によつて、ないし本件医療契約上の債務不履行責任によつて、被控訴人らの後記損害を賠償すべき責任がある。
四被控訴人らの損害
叙上認定の諸事実その他本件証拠上認められる諸般の事情を考慮すると、前記精神的苦痛に対する慰藉料の額は、被控訴人幸人につき金三〇〇万円、被控訴人善一、同良子につき各金一〇〇万円と認めるのが相当である。
また、本件訴訟の内容、経過及び認容額その他諸般の事情に鑑みると、被控訴人善一、同良子が控訴人に請求しうべき弁護士費用の額は、同被控訴人らにつき各金五〇万円と認める(なお、その遅延損害金は報酬支払契約締結の日((遅くとも訴提起の日))以降発生するとみるのが相当であり、その範囲内である被控訴人ら主張((訴状送達の日の翌日以降))の遅延損害金は理由があるというべきであるが、附帯控訴のない本件においては不利益に変更できないので原判決認容の限度に従う)。
五以上によれば、被控訴人らの控訴人に対する本訴請求は、被控訴人幸人において金三〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五〇年二月一八日から支払済まで民法所定年五分の割合による金員の、被控訴人善一、同良子において各金一五〇万円及び内各金一〇〇万円に対する同じく昭和五〇年二月一八日から、内各金五〇万円に対する原判決送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五六年六月一九日から、それぞれ支払済みまで民法所定年五分の割合による金員の、各支払いを求める限度で理由があるからこれを認容すべきであるが、その余は失当として棄却を免れない。
よつて、右と異る原判決を右の趣旨に変更し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、九二条、九三条、八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官黒木美朝 裁判官西岡宜兄 裁判官喜多村治雄)